ロックバンド、ディープ・パープルの楽曲とアルバムを紹介します。

ディープ・パープル(Deep Purple)は、イギリスで結成されたロックバンド。
代表作「ハッシュ」「ブラック・ナイト」「ハイウェイ・スター」「スモーク・オン・ザ・ウォーター」「バーン」など。

第1期 1968年 – 1969年

・ジョン・ロード(Jon Lord, キーボード)
・リッチー・ブラックモア(Ritchie Blackmore, ギター)
・イアン・ペイス(Ian Paice, ドラムス)
・ニック・シンパー(Nick Simper, ベース)
・ロッド・エヴァンス(Rod Evans, ボーカル)

この当時の音楽性は、ヴァニラ・ファッジやクリーム、ジミ・ヘンドリックスに影響された幻想的かつ破壊的な世界観を持つサウンドをその魅力とし、ビートルズなどの楽曲をも独自の前衛的かつクラシカルなアレンジを施してカバーしていた。

1968年3月、バンドのマネージメントを担当するヘック・エンタープライズ (HEC Enterprises)が設立され、同時にバンド名をディープ・パープルと改めた。

1968年5月、デビュー・アルバムの『ハッシュ』(発売当時の邦題は『紫の世界』)が発売され、6月には、ジョー・サウス (Joe South) の曲をカバーした「ハッシュ (Hush) 」がシングル・カットして発売された。このシングルは9月のビルボード誌でシングル・チャート第4位を記録するヒットとなり、新人バンドとしては異例と言われるほどの順調なスタートを切った。

1968年10月、セカンド・アルバムの『詩人タリエシンの世界』(発売当時の邦題は『ディープ・パープルの華麗なる世界』)がアメリカで発売された。

アメリカでは1969年6月にサード・アルバム『ディープ・パープル III 』(発売当時の邦題は『素晴らしきアート・ロックの世界』)がリリースされたが、その直後にテトラグラマトン・レコードが倒産し、ディープ・パープルはアメリカでのレコードの発売元を失った。

1969年暮れにワーナー・ブラザーズ・レコードと契約を結んだ。

第2期 1969年 – 1973年

・ジョン・ロード
・リッチー・ブラックモア
・イアン・ペイス
・ロジャー・グローヴァー(Roger Glover, ベース)
・イアン・ギラン(Ian Gillan, ボーカル)

この時期、アメリカのロック・シーンはレッド・ツェッペリンの衝撃的なコンサートとアルバムに注目が集まっていた。この流れを踏襲したブラックモアは、よりハードなサウンドをバンドに導入する事を提案したが、ロードは猛反対した。

次回作の主導権をブラックモアに託した。こうして1970年に入って新作アルバムのレコーディングが開始され、本国イギリスで6月20日に、『ディープ・パープル・イン・ロック』というタイトルで発売された。このアルバムはイギリスチャート4位に入り、さらにプロモーション用にレコーディングしたシングル曲の「ブラック・ナイト」がイギリスで2位を獲得した。

1971年9月、ハード・ロック・アルバムとしては第2弾となる『ファイアボール』 が発売され、全英で1位を獲得した。

次回作の作成時、レマン湖のカジノの火事を見て生まれた言葉とブラックモアが書いた印象的なリフと融合して、「スモーク・オン・ザ・ウォーター」が誕生した。先にベーシック・トラックが完成したこの曲(パヴィリオンでレコーディング)も含めて、1971年12月6日から21日までに宿泊していたホテルの廊下で録音された事でも有名な『マシン・ヘッド』が完成、1973年年2月にアメリカで、イギリスでは3月に、ヨーロッパ各国や日本でも順次発売されてヒットを記録した。

1972年8月には来日を果たし、15/16日に大阪フェスティバルホールで、17日には日本武道館でコンサートが開催された。この日本公演を録音した『ライヴ・イン・ジャパン』は12月に日本限定で発売されたが、その出来の良さが気に入られ、海外でも『メイド・イン・ジャパン』というタイトルでリリースされ、プラチナディスクを獲得している。このアルバムからシングルカットされた「スモーク・オン・ザ・ウォーター」がアメリカで大ヒット(4位)し、ようやくバンドはアメリカでもブレイクした。

続く新作のスタジオ・アルバム『紫の肖像』の制作は難航を極め、ライブ・イン・ジャパンとほぼ同時期の1973年初頭にリリースされた。